大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和41年(う)1858号 判決

被告人 坂井賢二

〔抄 録〕

第二点について、

所論は、要するに被告人には注意義務に違背した点はなく、過失責任はないから、無罪の言渡がなされるべきであつたのに、これを有罪とした原判決には事実の誤認があり破棄を免れないと主張するものである。

よつて判断するに、原審で取調べた各証拠によれば、被告人は、冷凍機の製作、据付などを目的とする木下工業株式会社の社員として、同会社が青森県経済農業協同組合連合会から請負つた弘前市和徳字和泉九丁目二番地所在のりんご冷蔵貯蔵所の建設工事の現場責任者であつたこと、同会社では右貯蔵所の倉庫の防熱装備としてボリウレタンフオーム吹付及びネオブーン塗布の方式を採用することとし、これに関する工事を東洋ゴム化学工業株式会社に下請させたこと、昭和三八年一二月二五日午後五時五〇分ごろ被告人は右貯蔵所の第四号倉庫において記管工事の作業員をしてアセチレンガス熔接の方法による配管の熔接作業を行わしめたところ、その前日前記東洋ゴム化学工業株式会社の従業員により同室の壁面の断熱材ボリウレタンフオームの表面に塗布された前記ネオブーン塗料に含まれていた引火性揮発物質トリオール(発火点四・四度ないし七・二度)が一部いまだ揮発せず残存付着していたため、これが右熔接の火花を引火し、さらに同室壁面及び天井のボリウレタンなどに燃え移つてこれを焼燬するにいたつたことを認めることができる。

そこで、本件出火に対し、被告人が右熔接作業を行わしめたことに過失がなかつたかどうかの問題について検討するに、原審証人芳野保男、同森勉の各尋問調書、当審証人芳野保男の証言、原審公判調書中の被告人の供述記載、当審公判における被告人の供述などによれば、

(一) 右ネオブーン塗料は合成ゴムを基剤とし、これに前記引火性揮発物資のトリオールなどを溶剤として加えて作られるものであつて、これを前記ボリウレタン断熱材の表面に塗布すると一定時間の経過によりトリオールなどの溶剤が飛散し、合成ゴム成分が残存固着してボリウレタン断熱材の表面を保護する効用を発揮するものであるが、かような方法は我が国においては本件工事について行われるのが最初であつて、被告人においても右ネオブーン塗料について、その方面の専門家ではないので、特別な知識経験を有しなかつたこと、

(二) 前記東洋ゴム化学工業株式会社では木下工業株会社から右工事を請負つたのち、ボリウレタンフオーム吹付、ネオブーン塗布方式による防熱効果、右塗料中のトリオールの飛散時間などを測定するため、本件貯蔵所倉庫に類似した小建造物を同会社の川越市工場内に仮設して実験を行つたが、その結果について被告人は同会社技術員芳野保男から、ネオブーン塗布後、夏分においては一二時間、冬分においては二四時間を経過すればトリオールは完全に飛散し引火性の危険は消失する旨の説明をうけていたこと、

(三) 実際の工事の施行にあたつても、東洋ゴム化学工業株式会社は専門技術員森勉らを現場に派遣して右ボリウレタンフオーム吹付、ネオブーン塗布作業にあたらせたこと、

(四) 本件第四号倉庫に対するネオブーン塗布作業が本件火災の日の前日の午後終了した際、被告人はトリオールが飛散して引火性の危険が消失する時刻について前記森勉とも相談を遂げた結果翌二五日の午後五時過ぎ、前述のように同室において作業を行わせたときには、既にネオブーン塗布後二四時間以上を経過していたので、引火の危険はないものと考えていた(記録中被告人の司法警察員に対する供述調書に「作業のおくれをとりもどそうと思い、まだ完全にトルエーンが空気中に発散してしまわないのに私は大丈夫だろうと考え熔接作業をさせたことは私の不注意で私に失火の責任がある」という趣旨の記載があるけれども、なぜ「発散してしまわない」と考えたのかその点具体性を欠く供述であるばかりでなく、他の証拠と対比し被告人の真意に出たものとは信じがたい。)

(五) しかるに右熔接作業を行う当時、まだトリオールが飛散しつくさず、本件事故の発生をみたのはどういうわけであるかというと、前記証人芳野保男の当審における証言などを参酌して推測すると、一般的には、東洋ゴム化学工業株式会社で行つたトリオールの飛散時間測定の実験は冬場寒冷地で行つたわけではないので、本件のような寒冷地の冬分においてトリオールが完全に飛散するには二四時間以上を要する場合もあるのではないかという疑がないとはいえないのであるが、本件出火に際し最初一個所だけ火が床から壁面を伝つて上方にチヨロチヨロ燃え出したことが認められるところからみると、同会社が行つた前記実験の際にはネオブーンをスプレーガンを用いて吹付塗布したが、本件事故の前日前記森勉等が行つた塗布は、局部的に手直しをして海綿をネオブーンにひたしこれを壁面に擦するという方法によつたためか、または本件倉庫の壁面と床との継ぎ目にネオブーンが溜つたりしたため、部分的に右実験の場合よりネオブーンが厚目に付着するという事態が生じ、そのためトリオールの飛散が右実験の場合よりもおくれたのでないかと思われることの各事実を認めることができ、右(一)ないし(五)を総合すると、被告人は木下工業株式会社の工事課員として本件建設工事一般について現場の監督責任者ではあつたが、東洋ゴム化学工業株式会社に下請させたネオブーン塗布作業については右塗料に対する専門的な知識経験がないのでこれに含まれていた引火性物質トリオールの飛散時間につき同会社から事前に実験の結果に基づく説明を受けるとともに、同会社から派遣され実際の塗布作業を実施した技術員とも具体的に相談の末、右説明や相談の結果に従つてトリオールが完全に飛散し引火の危険が消失したと考える時刻に及んで本件熔接作業を行わしめたのであるから、このような事情の下において一般通常人を被告人の立場におき注意を払わせたとしても、本件出火の危険を予見することができたであろうとは思われない。したがつて本件において被告人に刑事上の過失責任ありとするのは相当でない。

原判決は被告人が右ネオブーン中のトリオールが完全に飛散し引火の危険がなくなつてから熔接作業を行わせるべき注意義務があつたのに被告人はこれを怠つたと認定しているが、右に説明したとおり被告人には注意義務の懈怠があつたとは認められないから、原判決には、事実の誤認があり、破棄を免れない。論旨は理由がある。

(足立 栗本 渡部)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!